雨宮 幸弘
Yukihiro Amemiya 株式会社ディシジョン 代表取締役今までの自分の
やり方を手放したとき、
人生のターニングポイントに出合った。
サッカーに熱中し、アメフトで自分を高めたスポーツ青年は、大学卒業後の銀行勤務を経て、待望の飲食系企業に入社。しかしそこで、決死の覚悟で仕事に没頭する自身とスタッフたちの間に、決定的な乖離を経験。マネジメント業務の難しさに挫折を味わったとき、人生の転機が訪れた。
Profile
株式会社ディシジョン代表取締役、一般社団法人すごい会議理事
1974年生まれ、東京都出身。青山学院大学卒業。大学在学中からアメリカンフットボール部に所属し、卒業後、当時アメリカンフットボールの名門と呼ばれていた都市銀行に入行。1999年に株式会社Plan・Do・See入社。その後、現『すごい会議』代表の大橋禅太郎氏主宰のセミナー『マネジメントコーチ』に出合い、深く感銘を受ける。自身も社内コーチとして活動した後、2006年独立。株式会社ディシジョン創設。一般社団法人『すごい会議』理事としても、精力的にコーチングを行う。
少青年期に学んだ取捨選択の手法と挫折の経験
子供の頃はスポーツが好きで、小学校ではサッカーと水泳、それに剣道をやっていました。あとはピアノも習っていましたね。最終的にサッカー一本に絞るんですが、水泳も剣道もピアノも、「辞めたい」と母に伝えたとき、止められるようなことは一切ありませんでした。母は「あなたがそうしたいのなら、そうしなさい」という感じで、いつも私の意思を尊重してくれました。そのおかげで、何を手放して何を残すのか、自分の意思で取捨選択して、本当にやりたいことに集中するという考え方が身に付いたと思います。
ですが、ずっと続けていたサッカーも、中学生くらいになると上には上がいることを思い知らされます。自分がいかに井の中の蛙だったのかを知り、挫折を味わいました。そこでサッカーに見切りをつけ、大学ではアメフトを選ぶことにしたんです。私が入学した青山学院大学のアメフト部は多くの新入部員が初心者なので、スタートラインは皆ほぼ同じ。かつ試合に出られる人数も多いですからね。アメフトは、力に差がある相手でも頭を使って戦略を練れば、互角以上に渡り合えるスポーツです。自分たちと相手を分析し、対策を立て、それを徹底的に練習する。試合後は何度もビデオを見返して改善点を見つけ出し、次に生かすためにまた練習。そのサイクルをひたすら続ける4年間でした。そんな、現状をアセスメントして解決策を考案するという習慣は、今の仕事にも大いに役立っています。
挫折と決断が連れてきた、運命の出会い
大学卒業後は、お金の流れを学ぶため銀行に就職しました。さらにアメフトプレイヤーとしての自分を社会人で試したいという思いもあり、当時の銀行の中でそこそこ強かった東海銀行に入行しました。けれど、ここでも上には上がいて、1部でやっていた方々にはまるで歯が立たない。サッカーで味わった挫折を、今度はアメフトでも味わいました。さらに入社して2年目くらいで銀行の再編があり、アメフト部が潰れてしまったんです。そこで私は、アメフトを諦めると共に、転職することを決断します。元々いつかは飲食店のオーナーになりたいという思いもあったので、いい機会かな、と。それで当時リクルートに務めていた友人に、「今は大きくないけど、これからの時代をリードして、業界から一目置かれる飲食店のオーナーいない?」と相談しました。そこで紹介してもらったのが、後に私の人生を大きく変える偉大な存在、Plan・Do・Seeの社長 野田豊加さんでした。
1週間後、実際にお会いした野田さんは、私が今までまったく会ったことのない種類の方でした。そのときの服装が黒いTシャツに黒い革パン、片手にはシガーを持っていましたから(笑)。だけどその強烈なインパクトとは裏腹に、とても親身に話を聞いてくださり、私が「将来飲食店を持ちたいので勉強させてほしい」と伝えると、「いいじゃん、応援するよ。じゃあいつから来られる?」と仰ってくださったんです。それから僅か1ヶ月後、私は野田さんが経営するレストランで働いていました。
無休の6ヶ月で勝ち取った信頼と、必然の挫折
野田さんは完全なる現場主義でしたから、私が大卒だろうが元銀行員だろうが、初めはもちろんレストランウエーターからのスタートです。私も現場から裏側まですべてを学びたかったので、むしろ好都合でした。当時は休日も勝手に出勤し、タイムカードを押さずに現場に入っていましたね。それもランチからディナー、バーまでずっと。恐らく毎日15時間くらい働いていたと思います。気づけば体重も20kg近く落ちるほどでした。
そういう生活を3ヶ月くらい続けた頃、野田さんから「京都の物件がオープンするから、ダイニングマネジャーで行くか?」というお誘いをいただきます。もちろん「行きます!」と即答したんですが、「3ヶ月間だけ時間をください」とも、お願いしました。なぜなら、私はまだホールしか知らなかったからです。キッチンのことも知っておかないと、キッチンに対してものが言えない。そう考えて3ヶ月間キッチンに入らせてくださいと頼み込み、そこから、またも休日を返上してキッチンに勤務。結果、入社から約6ヶ月、ほぼ休みなしで働き続けた後に、京都のお店に異動しました。
そうしてマネジャーデビューした京都のお店ですが、これがいきなりの大繁盛。「なんだ、超余裕じゃん」なんて、すっかりいい気になっていたんですが、大きな勘違いでした。そのお店は鴨川沿いにあったんですが、夏の時期が終わり、鴨川に出していた川床を閉めた途端、客足もぱったりと止まってしまったんです。と同時に、スタッフたちから私に対して、多くの不満が噴出。今思えば、彼らを動機づけることもビジョンを提示することも、自分のリーダーシップを発揮することも、マネジャーに本来必要なことを何ひとつ示していませんでした。だけど飲食経験1年にも満たない当時の私には、なす術がありませんでした。だからもう、とりあえず全部否定。「なに言ってんの? 死ぬ気でやれよ」とか、「サービス残業が嫌なら辞めろ」とか。もうマネジャーと言うより、ただのボスザル(笑)。そこで初めて、マネジメント業務の難しさを思い知らされたんです。
その後また東京に戻り、今度はジェネラルマネジャーとして2軒ほど社内の別のお店を渡り歩いたのですが、そこでもスタッフの不満は膨れ上がり、人も次々と辞めていく。やがてそれが社内でも問題になり、あるとき野田さんから「ユキは、マネジメント超下手だな。めちゃくちゃ評判悪いぞ」と。数字は上がらないしスタッフには嫌われる。挙げ句、社長からもダメ出しされる。自らマネジャーを降りようと決断しました。
コーチングとの出合い、そして独立
ちょうどその頃野田さんから、「面白そうなセミナーあるから参加しようぜ」と言われました。それが今の『すごい会議』の前身、当時はマネジメントコーチと呼ばれていた、大橋禅太郎さんのセミナーでした。初めは半信半疑でしたが、もはやマネジメントにお手上げ状態だった当時の私は、大橋さんの考え方に衝撃を受けました。人の話に耳を傾け、質問し、相手が望むゴールまで伴走する。しかもそれで業績が上がることまで目の当たりにしてしまったんです。私のように、リーダーシップの発揮の仕方やシステマチックにブレイクスルーを起こす方法論を知らないマネジャーたちが、不幸にさえ思えました。
しかし、これを全店舗に導入するには、当時にすると莫大な資金が必要でした。だったら自分がコーチになろうと思い立ち、野田さんに直談判。とはいえ数千万円は要するこの投資の提案を、野田さんは即OKしてくれました。それからすぐに大橋さんに連絡し、「私をコーチとして育ててほしい。コーチングのノウハウを売ってください」とお願いしたんです。そこからみっちりご指導いただき、およそ1年かけて、当時8店舗あった中のレストランとキッチンとウエディング、すべての部門で私が社内コーチとなりコーチングを導入しました。その効果は、火を見るよりも明らか。どの店舗もみるみる業績が上がっていきました。
それからしばらくすると今度は、野田さんの経営者仲間たちから、「うちでも導入したい」とオファーを受けるように。再び大橋さんに連絡し、私が社外でコーチングする代わりに、ライセンスフィーをお支払いするという契約を締結。するとこの流れが軌道に乗り、気づけば売上が数千万円を超えていました。そこで野田さんに、「社長、独立してもいいですか?」なんて調子のいいことを言ってみたら、なんと「いいよ。やりたいようにやりな。コーチングのクライアントも全部持っていきな」と仰ってくださったんです。野田さんの器の大きさに感激し、一生かけてこのご恩を返そうと決意した出来事でした。野田さんとは、ゴルフやテニスをする関係が今でも続いてます。そうして2006年に独立。その後、本を出版してセミナーも開くようになり、次第にクライアントが増えていくと同時にコーチも増えていき、やがて今の『すごい会議』の形が出来上がりました。
自分のやり方を手放し、非を認めたとき、道が開く
私の原点は、負けず嫌い、ナンバーワンメンタリティーが大好きです。だからこそチャレンジし続けるわけですが、その度に上には上がいることを思い知らされ、何度も敗北感と挫折を味わってきました。特にマネジメントでの挫折は大きかった。朝から晩まで死ぬほど働いても、まったく人は付いてこないし数字も伸びない。本当にどうしていいのか分かりませんでした。だけど私がラッキーだったのは、野田さんと大橋さんに出会えたこと。お二人は私に言いました。「どんなに自分が正しいと思っていても、事実はユキの解釈を超えている」、「人のせいにしていたら、一生成長しない」と。そして、目を背けていた真実を突きつけられたんです。「そういう時あるよな。で、ユキがやることは何?」。そう、私が何かにチャレンジできる立場に立ったとき、行動を起こすか、しないかの決断をコーチングいただき、いつも勇気をいただいていました。そうしたお二人の在り方によって、今の私の人生が存在しています。
私は世の中が可能性の立場に立ち、何が可能かを語られる世界を作ろうと決めています。組織が、チャレンジし、一人一人の才能が発揮され、活躍し、社会の役に立つ。それを可能にするお手伝いができることが喜びです。